院長エッセイ集 気ままに、あるがままに 本文へジャンプ


睦月・如月そして霜月


 睦月・如月から始まる日本古来の月の呼称が好きだ。第一に語感がよろしい。しっとりと風雅で趣がある。第二に数字を使った呼称と違って、月の移り変わりにせき立てられる感じがない。第三に、それが何月であったのか一瞬ど忘れしたりするのも面白い。この文を読みながら、指折り思い出している読者の姿を想像するのもまた楽しい。十一月は霜月という。霜降り月を語源とする説が一般的である。最近十一月の別称として神楽月〈かぐらづき〉という言葉を知った。神楽は、「神座」〈かむくら〉が〈かんぐら〉、〈かぐら〉と転じたとする説が有力で、神が下りて来られる神聖な場所を「神座」と呼び、そこでの歌舞を「神楽」と呼ぶようになったと言われる。十月・神無月で、出雲に出かけてしまった神様が帰ってきて、それを再びお迎えするのが神楽月なのかと独り合点する秋の夜長である。
 昭和三十年代の半ば、わたしは教会の裏手で生を受けた。幼い頃、遊びの延長で日曜礼拝に通い、逆さにした帽子に寄付を集めて回ったことを思い出す。その教会の幼稚園を卒園したものの、少しひねくれもののわたしは、信者にはなれず四十年の歳月が流れた。しかしこれも何かの運命だろうか、我が家の向かいに教会が建ち、この十一月に落成した。冷たい雨のそぼ降る日曜の午前、控えめで透き通った賛美歌が聞こえてくる。対抗して念仏を唱えようとする細君の口を両手で押さえながら、わたしはしばし、こみ上げる感慨に身を委ねていた。洋の東西・宗教は違えども、あの十字架のもと「神座」から、聞こえてくる賛美歌は「神楽」なのだと。神への畏敬と信仰だけでなく、宗教を超えてなお消え入ることのない旋律。人として、生きていることのすばらしさ、生かされていることのありがたさを歌い上げる賛歌なのだと。



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